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【過去のインフレ勉強】ボルカーFRB議長時代の采配インフレ対策を調べてみた

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2022年7月現在、米国のインフレ率は上昇して9.1%をつけています。

パウエルFRB議長率いるFRBはインフレ退治にやっきになって取り組んでいます。

過去、FRBがインフレに苦しめられた時代に1970年代を引き合いに出されることが多いです。

やっと苦心惨憺でインフレを抑えたのはボルカーFRB議長でした。

インフレを抑えるのって大変なの?何が大変なの?

気になったので今回はFRBがインフレとどう戦ったのかを過去の事例をまとめてみることにしました。

それでは行ってみましょう!

ポール•ボルカーってどんな人

ボルカー回顧録 健全な金融、良き政府を求めて [ ポール・A・ボルカー ]

1927年9月5日ニュージャージー州ケープメイで誕生

高潔な家庭で育ち、無口な性格。

フィナンシャルタイムの記事には身長2m1cm、体重109キロと出ていたことがありかなり大きい人だったようです。

ニューヨーク連銀、チェースマンハッタン銀行、財務省、ニューヨーク連銀総裁と歴任

1979年から1987年までFRB議長を務めています。

当時猛威を震ったインフレを抑え込んだことで高い評価を受ける偉大なFRB議長

2008年にはオバマ大統領により経済回復諮問委員会の委員長に指名。

通称ボルカールールの策定に関わる。

2019年12月8日92歳で亡くなる。

1970年代のインフレ

インフレ率チャート(米国インフレ率•前年同期比)

1970年代から続くインフレのチャートとFRB議長
TradingView 提供チャート

1970年からのインフレ率のピークとボトム

1972年6月率2.6%

1974年12月12.3%

1976年11月4.9%

1980年3月14.8%

1986年12月1.1%

1970年代のインフレと言われますが、インフレ率は1960年代後半から上昇トレンドになっています。

インフレ率は2%ぐらいが良いとされていますが、1970年代はほとんどの期間で5%を超えてます。

10%を超えるようなインフレの期間もあります。

1970年代を通じていかにインフレ率が高かったのかがわかります。

1970年代インフレが吹き荒れた要因

経済の成長に伴いドルの増加、金との兌換停止

世界経済の成長を受けて、世界で使われるドルの量が増えました。

増えすぎたドルはインフレ圧力になりました。

当時のドルは基軸通貨として世界各国の決済のために広く使われていました。

戦後は、世界の経済が復興し成長とともに使われるドルの量も増えていきました。

一方で、金の価値とドルの価値は決まった額で取引されていました。

金1オンスが35ドルと決まっていました。

これを決めることで世界どこでも同じ価値としてドルが決済につかわれていました。

ところがドルが増えすぎたために

金の量に対してドルの量が多すぎる懸念からこのレートを守れなくなりました。

結果

ドルと金のレートが下げられます。

ドルが安くなるということです。

金とドルが固定レートだったので、ドルと各国通過も固定のレートでしたので

各国通過に対してもドルは安くなり海外からの物は高くなりインフレ要因になりました。

1973年最終的には金とドルの固定レートは廃止されました。

【1970年代ゴールドチャート】

1970年代ゴールドチャート
TradingView提供チャート

【1970年代の貨幣量の伸び率】

1970年代M2チャート
参照:FRED

金融緩和政策の影響

1970年初めにFRB議長を勤めたのはアーサー•バーンズでした。

1970年から1978年までを勤めました。

スタグフレーションという経済の新しい病と対峙しました。

スタグフレーションとは

スタグフレーションとは高いインフレと高い失業率が同時に発生している状況

それまではの考えでは

インフレが高い→失業率が下がる

失業率が低い→インフレ率上がる

というようにインフレと失業率は逆の動きをすると考えられていました

バーンズは政権からのプレッシャーから十分な金融引き締めを続けられませんでした。

のちに過去を振り返って

引き締めを十分な期間出来なかったことがインフレが止まらなかった一つの要因になった。

と述懐しています。

ベトナム戦争による国防費や社会保障費の増加

国防費、社会保障費の拡大は関係する産業の景気を拡大し雇用を産みます。

完全雇用に近づいたことで、雇える人が少なくなり、企業は人を雇うための給料を高くして人を集めました。

結果、人権費の増加と給料のアップはインフレに影響しました。

ソ連の歴史的不作により米国から穀物買ったことによる物価高

1972年ソ連は歴史的大不作から米国より大量の穀物を輸入するようになる。

1973年オイルショックによる世界的な原油価格の高騰

1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに石油価格が上昇します。

1974年にはOPECが原油価格を4倍しました。

1973年の戦争前、原油公示価格1バレル3.01でした。

1974年1月には11.65ドルになりました。

1979年にはイラン革命をきっかけに第二次オイルショックが発生しました。

政治の混乱で初期に十分なインフレ対策を打てなかった

1973年インフレ率が高まっていくなか、ウォーターゲート事件のスキャンダルによりニクソン大統領の政権は力を失っていきます。

政治の混乱によりインフレに対する強い対応をとることも出来ず、人気途中での辞職に追い込まれました。

高い失業率による生産力の低下により供給不足

【1970年代米国失業率チャート】

1970年代の米国の失業率
参照:FRED

1970年代はインフレと共に高い失業率を記録しています。

労働者が減ることで生産力が減り、供給量が制限されるのでインフレの一因となりました。

インフレがインフレを呼ぶ状況

市民は長く続くインフレの生活でインフレを見越した行動をとるようになります。

  • 今ローンなどで買っておいて、支払いは後で払うことが常態化。
  • インフレを考慮した毎年の賃上げ。

お金を早めに使う行動は消費を促進することになり消費の増大に繋がった。

賃上げは慣例として行われるようになった。

これらはインフレに影響しました。

インフレってなぜ起こるの

いろいろな要因があり、説がありますが、一つを紹介すると

ノーベル経済学賞を受賞したフリードマンの有名な言葉に

“インフレはいついかなる場合でも貨幣的現象である”

とあります。

政府の過剰支出がインフレを引き起こすと考えられます。

  • 物を生産するよりも多く、世の中にお金が出回りすぎることでインフレが起こります。

インフレが起こる状況は他にも次のような事も考えられます。

  • 物が少なくなることで、お金の方が多くなる(戦争など)

ボルカーの新たなインフレ対策

1979年8月ボルカーがFRB議長に就任した当時はインフレが大問題でした。

1976年11月に4.9%だったインフレ率は上昇を続けて

1980年3月には14.8%をつけます。

それまでのFRBの金利にアプローチする手法は十分に機能しなかったことから

新たなアプローチを策定します

新金融調整方式です。

新金融緩調整方式とは

FRBはお金(M1)の流通量を調整することを政策の重点目標に変更しました。

この方式では、金利を市場の決定に任せることになり、金利の変動は乱高下が激しくなるリスクが予想されました。

ですが、インフレを抑え込む為そのリスクを負っても新しい方針にチャレンジしました。

新しい方針ではお金の流通量(銀行準備金のコントロール)を目標にして政策を実行します。

金利は以前より市場の影響を強く受けるため金利が大きく動くことになります。

しつこいインフレの理由

新しい方針に変更してからもインフレはすぐには治りませんでした。

市民のインフレありきの生活

長年にわたるインフレを経験し、市民はローンで買って後で払うようになっていました。

それは消費を促進して、需要を高め、インフレに影響を与えました。

将来インフレでお金の価値が下がるなら、今買っておくのが得策といことです。

FRBに対する不信

それまでのFRBは景気が悪くなると金融緩和

政治のプレッシャーで金融緩和

それまで十分な期間の引き締めができずにインフレを招いた反省があります。

『どうせ不都合があればFRBは政策を転換するからインフレを抑えることはできないだろう。』

とするFRBに対する政策の不信感は、市民にインフレが止まらないと感じさせ

インフレありきの行動は止まりませんでした。

財政赤字の拡大

  • 減税による歳入の減少
  • 軍事費拡大など歳出の増加
  • ドル高を背景に輸入増加による経常赤字
  • 高金利による海外資金の流入

1980年にレーガン政権が誕生しました。

レーガン政権は大幅な減税、強いアメリカを目指して軍事費といった歳出の拡大で赤字を拡大させます。

財政赤字は将来、FRBが赤字をマネタイズをするのではという予想させました。

それはインフレに影響を与えていました。

インフレを抑えたFRBの行動

このインフレを退治したのは

ボルカー議長の断固としたインフレに対する姿勢でした。

その断固としたインフレ対策を貫く姿勢は人々のインフレに向かわせる行動を変化させました。

政府からの要請にも断固としたインフレ抑制の態度をとりました。

インフレにつながる行動を抑え、財政を健全にするように政府の行動も変わったことで

インフレは収束に向かいました。

それまでの道のりは厳しいものでした。

政界のプレッシャー、経済界、高金利に苦しむ市民からの批判に耐えました。

断固とした態度を示すFRB

FRBはそれまで、十分な期間インフレ対策を出来なかったことでインフレを治めることができませんでした。

その反省から断固とした対応をボルカーはやっていきました。


1980年4月経済の景気後退予想される状況でも手を緩めませんでした。

1980年5月新しい消費者ローンの規制法案で経済が急速に悪化。

それでも引き締めの態度を崩しません。

1980年11月の大統領選前には公定歩合を1%上げます。

選挙前に金利を上げるのは異例のことでした。

金融引き締めは選挙にマイナスです。

大統領に配慮することなくやるべき引き締めを粛々と行います。

その後カーターは落選。レーガンが新大統領となりました。

1981年四半期にインフレ率は年率換算4%(前年で12%)に下落。

インフレが十分な期間行えなかった反省から、それでも引き締めの手を緩めませんでした。

1982年2月大型の後退局面でさらにFFレートを利上げ、12%→14%へりあげしました。

1982年2月レーガン大統領に政治面の課題である財政赤字削減への尽力も取り付けます。


  • 断固としたボルカーのインフレ対策がインフレ予想を下げ、インフレは治って行きました。

ギリギリの金融引き締めの影響

強力な金融引き締めの影響で経済は落ち込んでいきました。

1982年半ばには失業率9.5%超え、失業率1,050万人。第二次世界大戦以降最悪の数字でした。

インフレを抑えたポイント

インフレを抑えたのは

  • FRBがインフレを抑える行動をとると信用させた
  • 中央銀行として政府の無責任な赤字財政を許さなかった

まとめ、走り出したインフレを抑えるのは困難な道のり

一度インフレになれた市民の生活態度を変えるのは難しいことでした。

それにはFRBの政策が信用される必要がありました。

周りの抵抗を押し切ってインフレ退治に動き出したボルカーはさまざまな人、団体から批判をうけました。

政治の圧力と戦い

経済界からの批判にあい

経済の専門家から批判され

高金利で苦しむ市民からの抗議にあい

これまでの経済理論では測れないインフレと格闘し

給料が安くなっても奉仕の為にFRBの仕事を受け

さまざまな困難と戦いFRBの信頼を回復させインフレを抑えました。

ボルカーは歴代FRB議長の中でも恐ろしいインフレを解消した偉大な人物の一人として尊敬されています。

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